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濁流 -約束ー  1

 
 なだらかな起伏を繰り返す牧草地を越えたその先・・・・・・。


 丸々二ヶ月もの間、閉じこもっていた別荘を出て、この雑木林までやっと辿り着いた。
木々の枝葉の間から射し込む木漏れ日が、柔らかな緑の下草に覆われた地面の上で、
静かに舞い踊っていた。
 名も知らぬ、青黒い樹皮のその木々は、どれもみな、濡れたように艶やかな緑の葉をした
蔦が絡み、互いにしっかりと抱き合い、慈しみあっているようにさえ見える。



 静かだ。

さわさわと風が木々を揺らしながら吹き抜けていく。
ふわり・・・・・・いい香りが漂う。
 一歩、また一歩、林を奥へと進む。
一際大きな木の根元に腰を下ろし、投げやりな風に足を投げ出す。
ふくらはぎがつりそうになり、慌てて拳で叩いた。
 この程度の散策で息は上がり、足がつるとは・・・・・・まるで老人じゃないか。
ふうっとため息をついて木に凭れ、眼を閉じた。


 さわさわ・・・・・・風がまた枝葉を揺らしていく。
またふわりといい香りが漂う。
 何の香りだろう。
どこか近くに花畑でもあるのだろうか。 風は花端で木香りを貰い、この林に
おいていくのかもしれない。
寂しいような、懐かしいような・・・・・・唐突に涙がつうっと頬を伝い落ちた。


 この一年あまり・・・・・・
見知らぬ異国を転々とし、人目を避け、息を潜めるようにして過ごしてきた。
そして、二ヶ月前、主家ヴァランツィーノ家当主からの指示で、このヴァンデーラ王国へと
やってきた。
 今までのような安宿暮らしではなく、ヴァランツィーノ家所有の豪華な別荘暮らし・・・・・・。
美術品のような食器やグラス、重量感のある銀のナイフやスプーン、
専任の給仕によって供される大層な食事。
上等の絹のシーツにくるまって、天蓋つきのふかふかベッドに眠る。
毎朝、定刻にカーテンを開けに来る女中。
目を覚ますと同時にお茶が届けられ、天然温泉で毎日入浴し、用意された清潔な下着と、
上等な服は、いつも香が焚き込められていて、とてもいい香りがする。
 一階の美しい庭園が良く見える食堂で、食事を済ませると、3階の部屋へと戻る。
何をすると言うわけでもなく、ただぼんやりとして”昼飯”を、そして”夕食を待つ。
これ以上無いほど贅沢で、怠惰で、むなしい日々。 


 涙があとからあとから溢れ続ける。
なにもかも、すべてあの男のせいだ。


 さわさわ・・・・・・風がまた・・・・・・
そしていい香りがふわりとあたりに漂う。
くらくらっとめまいがして、ふうっとため息をついた。


 不安ばかりが募る日々。

 レイは・・・・・・義理の弟は・・・・・・生きているだろうか。
わずか4歳で実母の死を目のあたりにして、放火による火災で大やけどを負い、
瀕死の状態で助け出されたレイ・・・・・・。
 もし助かったとしても、一生消えないやけどの痕を抱え、心に深い傷を負ったまま生きて
行かなくてはならない。 それもすべて、あの男のせいだ。


 またため息。

 祖国を出てからずっとため息ばかり。 どうしようもない。

”今更思い悩んだところで、どうにもならない”  あの日、ヴァランツィーノ公爵はそう言った。


 さわさわ・・・・・・また風。
そして、いい香り。


 
 「?!」

頭に、肩に、ぱらぱらっと、何かが当たった。

 目を開くと、自分の座った周辺に、白く小さな花が零れ落ちていた。
「!」 また小花が頭にあたり、肩、腕へと弾んで地面の上に転がった。
いぶかしげに仰ぎ見て、私は自分の目を疑った。


 天使だ。 天使がいる。


私が寄りかかっている木の幹の股にちょこんと腰掛け、白い小さな手で小花を摘んでは
ぷいっと放り投げている天使・・・・・・。


 いや、天使など、いるわけがない。
女の子に見間違いそうなほどかわいらしい、ごく普通の男の子だ。
 頭ではそう納得していたはずだったが、胸の奥で”絶対に天だ”と言い張る自分がいた。
亜麻色の長い髪がふわふわとカールしていて、生成り色のシャツの上でふわふわと揺れている。
ミルクのように白い肌は、陶器のように滑らかで、頬はうっすらとしたピンク色、驚くほど大きな
瞳は、ルビーのように紅く輝き、 小さな唇はばらの蕾のようにふっくらとしていて・・・・・・。


 呆然と見上げている私の顔に、ぷいっと放った白い花があたり、、はっと我に返った。


 天使は、じっと私を見詰め、そして
「泣いてた」 と、歌うような声音で言った。
「?!・・・・・・あ・・・あ・・・・・・」
どぎまぎして言葉にならず、慌てて頷いた。
「大人なのに泣くんだね」
ぷいっとまた小花を放る。
「ぁ・・・はい」
くらくらっとめまいがした。
「兵隊さん?」
いきなりの問いに面食らい、言葉が出てこない。
「あっち」
とまどう私を気にも留めずに指差した。

 その方向を見ると、遥か向こうに港の物見台の屋根が見え、てっぺんに突き刺したように
ヴァンデーラ国旗が海風に翻っていた。
「あっ・・・・・・」 思い出した。

 この国に来た日、ヴァランツィーノ私兵団海軍兵に混ざって上陸するため、
仕方なくサイズの合わない緋色の軍服をまとっていたのだ。 
その姿をどこからか見ていたのだろう。
「あの・・・あれは借り物で・・・私は・・・・・・医者の・・・見習いで・・・す」
妙な感じだ。 舌がもつれるような感覚。
「ふ~ん、そう」
大して興味も無いような返事・・・・・・そして、またぷいっ、ぷいっと白い小花を放った。
「すてきな声」
また唐突な言葉・・・・・・幼い子供にありがちなその飛躍。
「あ・・・ありがとう・・・ございます」
どぎまぎしながら、もつれる舌で答えた。
 
 相手は、10歳にもならない少年なのに、ぞんざいな口をきいてはいけない感じがした。
心の奥で、”天使だ”と、頑固な私が主張しているからだろう。
 だが、この声を褒められるとは・・・・・・。
昔から、背ばかりが伸びて、あっという間に声変わりし、顔立ちとそぐわない
超低音の声になってしまった私は、驚かれたり、聞き取りにくいと嫌な顔をされたり、
からかわれたりすることはあっても、褒められることなど、一度も無かった。
 大学へ通うようになり、何度か酒場へ行ったときに、酒をたかる場末の娼婦に、
似たような意味合いの事を言われた事があったが、その女の下卑た表現に腹が立ち、
すぐさま追い払った。 ただでさえ無口なのに、この一件でなおさら口を開きたくなくなった。

 でも、今、天使に褒めてもらえて、私は初めてこの声で良かったと思った。
無性に嬉しかった。

「不思議だね」
「え?」
「魔法の声」 またぷいっと小花を放る。

 生成りのシャツと思っていたが、どうやらそれは寝巻きらしかった。
裾がふわふわと揺れて、白いふくらはぎが覗く。
細い足首、素足・・・そして、赤いバックスキンの華奢な室内履き。
ふわふわ揺れる裾の奥・・・ほんのり色づいた膝小僧、やわらかそうな内もも・・・。
 はっと我に返って慌てて目をそらした。
頬が熱い。
「ずっと祈ってた」
「?!」
「見えた」
また指を差した。
その指の先に、ヴァランツィーノ家所有の別荘の屋根が見えた。
「ここに上るとね、出窓にすわったあなたが見えた」
「・・・・・・」 頷いた。
「泣きそうだった。 だから、ここに来てって・・・・・・ずっと呼びかけてた。 毎日」



 呼ばれていたのだ、天使に。

 多くの使用人がいる別荘で、孤独に暮らしていた日々。

私は部屋に戻ると、なぜか引き寄せられるように出窓に座り、時が経つのも忘れて
牧草地の向こうに見えていた林をずっと眺めていた。

「あ・・・・・・」 また涙が零れた。


「降りる」
少年は突然言うと、くるりと体を反転させ、幹にしがみつき、こぶに足を掛けてゆっくりと
下り始めた。
「!!」 -危ないー
慌てて立ち上がり、盛り上がった根っこの上に乗って両手を差し出した。
 だが、幾ら並外れて背が高いといっても、まだまだ届く高さでは無い。
はらはらしながら見守っていると、少年は体をねじるようにして、差し出した私の
両腕をめがけてその身を投じた。
「!」

とさっ・・・軽い衝撃ーそして、甘酸っぱい香りがした。

 緊張のあまり、抱きとめた少年をぎゅっと抱きしめていた。









 

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